教えて癒し系和尚さま回答集


例によって、ここに書かれている内容は一般の仏教書とは違うことが書いてあるかもしれません。
回答に関する責任は本覚寺住職の僕にありますが、厳しく追求してはいけません。
ナンダコリャ?って思ったら仔犬のあたまを撫でるように、やさしく、そっとやさしくご指摘してくださいな。




下積みについて


【質問】
私は文化人類学を勉強していて、今K学院大学に留学をしてます。
論文は日本の大学の体育会合気道部の人間関係について書きます。
その為に、京都の大学の合気道部をリサーチしています。質問があります。

京都の大学の前にリサーチした大学の合気道部では、一年生だけが道場の掃除をして、上級生はそのとき、新聞を読んだりしました。道場の掃除も練習だとすれば、このことは正しいことでしょうか?教えてください。


【回答】
確かに見ていてあまり気持ちのいい光景ではないですね.
ノルウェーとかよそのお国のことは存じませんが、
日本の体育会系の部活動ではそんな伝統があったりします

 そういう僕も永平寺での修行時代に同じようなことを体験しました
一年生の立場のときは上級生のそういう態度を疑問に思ったりもしましたが
自分が上級生になるにつれて、そういう習慣に慣れてしまい
そういう純粋な疑問もどっかに忘れてしまったことを思い出しました。

ちょっと部活動とは違うかもしれませんが
以前、クルマの修理屋さんや、日本料理の板前さん達とそういうようなお話をしたことがあります。

「下積み時代の思い出&苦労話」ってヤツです。

修理屋さんは工場に「見習い」という立場で入社します

朝は誰よりも早く出勤して工場内の掃除をして、先輩が使う工具の手入れをします。
仕事といっても工具は使わせてもらえず、1年間ずーっとクルマのボディーから下回りまでみっちりと洗わされていたそうです。


その間、先輩たちが自分達のペースで休憩をとったりする光景を横目で見ながら悔しい思いをしていました。

同期で入社した仲間は悔しさに耐えられずにほとんどが辞めていき
ましたが、何とか耐え、一年ほど経ったときに親方から見習い期間の終わりを告げられ、工具一式を与えられた日のことは、一生忘れられないことのひとつだそうです。

板前さんも使いっ走りの追いまわしに始まり、洗い方(3段階)、立回り、盛りつけといった教養科目の段階から、職人さんの世界の、焼き方、脇鍋、煮方、脇板という段階を踏んで一人前の板前さんになるのだそうです。

ここで僕が言いたいのは下積み時代の苦労を忘れないということも大事なのですが、それ以上に皆さん口を揃えておっしゃるのは下積み時代をキチンとこなしたから今の自分の腕前があるんだということです。

洗車ばかりしていたおかげで「この車種のライトのスイッチの場所はここにある」とか「こういうクルマはこの部分がよく壊れる」といった具合にいちいち調べなくても、実際に修理の経験はなくても、そのクルマの特徴はカラダが憶えてしまっていたそうです。

板前さんも皿洗いをしていたおかげで九谷焼だとか伊万里だとかの知識もついただけでなく、皿に残った料理をこっそり味見しては、味付けのコツを憶えたそうです

正しいとか間違ってるとかじゃなくて、その人がどういう心構えでその伝統に従うかによって、その道だけでなく、これからの人生にプラスにもマイナスにもなっていくのではないでしょうか?


見習い時代の一見理不尽に思えるような伝統も、今は理解が出来ないだけで、必ず意味があるのだと僕は考えています。

そう考えればダラダラした4年生の態度もちょっとは気にならなくなるんじゃないでしょうか?




奇跡について

【質問】
 親戚のおばさんから”不治の病が治るから入信しなさい”とかしつこく勧められます。
どうしたらいいのでしょうか?

 ちなみにいたって健康なんですけど・・・


【回答】
 う〜ん、確かに宗教には奇蹟が求められますよね。
お坊さんにとっても超能力とか、神通力とかいう言葉も魅力的な言葉です。
そんなのあったら楽しいだろな、とか思っちゃいます。

でも奇蹟っていうのは実際には起きないから奇蹟であって、
これを御利益と称して宣伝する宗教はたいていの場合詐欺的ですね。

教科書も開かないで、お釈迦さんにお願いして東大に入れますか?
はっきりいって無理です。合格できません。

余命一年ってお医者さんに宣告された人が
治療を止めて信仰に目覚めることもありますが、
これは信仰によって病気が治るのではなく、
「死ぬ」っていうことに直面した自分を見つめることができるようになるんです。

つまり正しい信仰っていうのは、
「決して奇蹟を求めることではなく、今為すべきことをなして仏さまに心の落ちつきを求める。」
っていうことじゃないでしょうか?

しかし元気なのにそんなこと言われちゃうなんてショックですね。






お布施について


【質問】
 お坊さんにお渡しするお礼を「お布施」っていいますが、これって何ですか?

【回答】
 「お布施」っていう言葉は六波羅密(六つの悟りの方法)の第1に採り挙げられているもので、
「人の身になって考える」っていうことです。
つまり、僕たちお坊さんが皆さんからのご要望にお答えして営む法要は「法施」と言い、
皆さんがお坊さんの身になって金品を施すのが「財施」といいます。

ほんじゃ、お金を持ってなかったらどーすんの?というツッコミが聞こえてきそうですが
そういう時は

なども立派なお布施になるんだよ。
と、お釈迦さんは言っておられるので安心してお布施してください。




【質問】
 お布施っていうのは、弁護士さん達のように報酬規程のようなものはあるのでしょうか?
例えばお葬式の時はいくら、とか宗派によって決まりがあるのですか?

【回答】
 日本仏教会だとか、曹洞宗宗務庁からもそんな取り決めのお達しは受けていません。

「お布施」っていうのはお坊さんの努力に対する対価ではありません。
つまり労働に対する対価、報酬ではないのです。
お坊さんは仏さんに仕え自らも仏になることを目指した人間であり、そのお坊さんを社会の人々が支えているわけで、
その支える方法が「お布施」なのです。

もちろん「お布施」というのはお施主さん(お布施する人ね)のお気持ちにお任せする行為ですから、
その量(お金であったらいくらとか、お米であったら何キロとかね)に取り決めはありません。

とはいえ、現実として多くのお寺さんは広い土地や大きな建物を所有しています。
これを維持するには結構お金がかかります。
境内や墓地の草取り、植木の手入れ、伽藍の修理などです。

昔は農業の合間に近所の檀家さん達が草取りを手伝ってくれたり、植木の手入れや草花の植え替えをしてくださいました。
台風が来るといえば板を張ったり、飛ばされそうな物を動かしたりしました。
これが「お布施」です。

お金ではありませんが、お坊さんは大変助かっていたのです。
もちろん米、みそ、醤油などの本尊さまへのお供物はお坊さんの生活を支えていました。

しかし最近では少数の方を除いて、皆さん会社に勤めておられ、
このような「お布施」はやりにくい環境になってしまいました。

そこで「お金による布施」に変わってきたのです。
お坊さんやお寺も社会の一員としてこのような傾向を免れるわけにはいきません。
そんなわけで「お布施」はお葬式や法事でお経を唱えるという行為に対する対価として考えられるようになってきました。

お経の商用化ってやつですね。

こうなると表向きだけのウケの良いお坊さん(○○○○のような)は高額のお布施を受け取ることになります。
そういうのって”なんだかな?”って思います。

お話がだいぶと逸れちゃいましたが、最後に希望を言わせていただきますと

お寺を維持しお坊さんが生きていくためには「お金」が必要です。
これを「お布施」という形式で受け取るのが一般的な方法です。
ですから、お布施を下さい。





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